坐摩神社 難波神社

21-Feb-2021

 

本日は、坐摩神社と難波神社へお参りに行ってまいりました。
天気もよく、暖かい朝でしたので、のんびりとした日曜日となりました。

 

 




 

 

坐摩(いかすり)神社

 

坐摩神社
坐摩神社

 

坐摩神社。「いかすりじんじゃ」と読みますが、「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているようです。

御祭神は、
生井神(いくゐのかみ)
福井神(ふくゐのかみ)
綱長井神(つながゐのかみ)
波比岐神(なみひきのかみ)
阿須波神(あすはのかみ)
五柱の神の総称である「坐摩大神」

坐摩(いかすり)の語源は諸説あるとのことですが、土地又は居住地を守り給う意味の「居所知(いかしり)」が転じた名称といわれているとのことです。

神功皇后が新羅よりご帰還された折に淀川南岸の大江の岸・田蓑島、のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町附近)に創祀されたのが始まりとされていますが、こちらも諸説があるとのことです。

 

以下、「摂津国一之宮 坐摩神社御由緒略記」より抜粋

平安時代の「延喜式」には攝津國西成郡の唯一の大柱と記され、産土神として今日に至る。

朱雀天皇の御代、天慶二年(939年)以来祈雨十一社中に列し、以後たびたび祈雨(雨乞い)のご祈請・奉幣に預かる。

天正十年(1582年)豊臣秀吉の大阪城築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間現在地に遷座される。

明治元年(1868年)の明治天皇大阪行幸の際に坐摩神社に御親拝なされ、相撲を天覧なされる。

昭和十一年(1936年)官弊中社に列せられた際に御造営された壮麗な御社殿が残念ながら戦災により焼失する。

現在の御社殿は昭和三十四年(1959年)に鉄筋コンクリート造で戦前の姿のままに復興されたもの。

 

坐摩神社 御由緒

坐摩神社 御由緒

 

 




 

 

坐摩神社境内に「火防陶器神社(ひぶせとうきじんじゃ)」があります。

火防陶器神社
火防陶器神社

 

火防 陶器神社

御祭神は、
大陶祇神(おおすえつちのかみ)
迦具突智神(かぐつちのかみ)

明治六年の創建であるが、その起源は明暦年間(1655〜1657)にさかのぼる。とのことです。以下、火防陶器神社の小冊子より抜粋

信濃町(現在の西区靱本町一丁目付近)の石灰商・山田喜六の邸内に火災の難を除かせ給う愛宕山将軍地蔵が祀られ、夏の地蔵会(七月二十三・二十四日)に通りをはさんだ南側に小屋を設けて祀ったところ、多くの参詣者が訪れた。
延宝年間(1673~1681)には近隣の西横堀に陶器商が軒を並べ瀬戸物町が形成され、火防の御利益著しいことから特に陶器商の信仰を集めるところとなる。
その陶器商らが地蔵会に蔵ざらえの品の安売りを始め、陶器造りの人形が奉納されるようになり、瀬戸物町の地蔵会として賑わいをみせた。
明治五年には神仏分離の混乱のため地蔵会は中止を迫られるが、当時の大阪府知事渡辺昇氏らの努力により、翌年新たに火防陶器神社が創建され、地蔵会は陶器祭と名前を変え継承された。
当初は地蔵会が行われていた空地の北側に創建されたが、明治四十年の都市計画によって敷地に市電が通ることとなり、翌年に坐摩神社境内に移転された。
昭和十八年には戦局激しく、陶器人形の奉納が見送られ、昭和二十年には戦火により坐摩神社の社殿とともに焼失し、戦後昭和二十五年まで陶器祭は中断を余儀なくされた。
この間、瀬戸物町の陶器商らの尽力により、昭和二十六年西横堀川の西側(現在の阿波座一丁目付近)に復興し、途絶えていた陶器人形の奉納、せともの祭りも再開した。
その後、西横堀川に阪神高速道路が建設されることとなり、昭和四十六年、崇敬者の浄財と各地陶芸作家諸先生の賛助を得て、再び坐摩神社の境内に現在の社殿が造営された。

 

桃の花
桃の花

 

上方落語寄席発祥の地
上方落語寄席発祥の地

 

坐摩神社 狛犬
坐摩神社 獅子

 

坐摩神社

〒541-0056 大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目 渡辺3号

 

 




 

 

難波神社

坐摩神社を参拝し、徒歩5分ほど、難波神社にも参拝させていただきました。

難波神社
難波神社

 

御祭神は
仁徳天皇

配祀神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)

西暦406年、反正天皇が河内国丹比柴籬宮(たじひのしばきのみや)(現在の松原市上田)に都を移されたときに父帝の仁徳天皇を偲んでお建てになられたのがはじまりといわれているそうです。以下、「難波神社案内記」より抜粋

九四三年、朱雀天皇の御代に天皇の御命令で大江の坂平野郷(現在の天王寺区)にうつり、摂津国の総社(参拝の便宜のため、数社の祭神を一個所に総合してお祭りした神社)として「難波大宮」または「平野神社」と呼ばれていた。

一〇七一年延久三年の正月、後三条天皇が住吉に行幸される途中の夢のお告げにより、万民の病疫をすくわれる素戔嗚尊と五穀豊穣を誓われる倉稲魂尊をご一緒にお祭りするようお命じになったと伝えられている。

いまの地にうつされたのは、一五八三年豊臣秀吉が大阪城をたてた時で、当時この地は上難波村と云われ、難波神社も「上難波宮」又は「仁徳天皇社」と称しておられたが、一八七五年(明治八年)に「難波神社」と改められた。

一六六六年(寛文六年)十二月八日火災にあい、神宝、みこし等多数が焼失。

その後再建された建物は、御堂筋開通に伴い、一九三五年(昭和十年)から五ヵ年計画をもって神域の拡張、改築の工事を行ない、一九三九年(昭和十四年)二月に完成し、壮麗な四方鳥居を建造して旧観をしのびえるに至る。

しかしながら第二次世界大戦の空襲により、一九四五年(昭和二十年)三月十四日、鳥居と玉垣を残して全焼、一九四八年(昭和二十三年)竣工の仮宮によっていたものを、氏子、崇敬者の熱意と多額の浄財の寄進により、一九七四年(昭和四十九年)七月、大阪の中心地御堂筋に面して、由緒ある神社にふさわしい立派な姿となって再建された。

 

難波神社 御由緒
難波神社 御由緒

 

難波神社 御由緒
難波神社 御由緒

 

難波神社

〒541-0059 大阪府大阪市中央区博労町4丁目1−3

 

 






























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